山崎ハコ-未発表
作词 : 山崎 ハコ,作曲 : 山崎 ハコ,
ふるさとは東(とう)京(きょう) そういうあなたは,
fu ru sa to wa to u kyo u so u i u a na ta wa,
故乡是东京 说这句话的你
淋(さび)しいふりも 気(き)取(ど)りもない 都(と)会(かい)のビートル,
sa bi shi i fu ri mo ki do ri mo na i to ka i no bii to ru,
寂寞的样子 也不伪装 像都邑的甲壳虫
私(わたし)達(たち)の頭(ず)上(じょう)には 数(かぞ)えるくらいの星(ほし),
wa ta shi ta chi no zu jo u ni wa ka zo e ru ku ra i no ho shi,
我们的头顶 数得过来的星星
どんな時(とき)にも輝(かがや)いてる 金(きん)星(せい)はあこがれだね,
do n na to ki ni mo ka ga ya i te ru ki n se i wa a ko ga re da ne,
无论何时都在闪耀 憧憬着金星吧
オレは田舎(いなか)にあこがれて 家(いえ)出(で)したくらいさ,
o re wa i na ka ni a ko ga re te i e de shi ta ku ra i sa,
我憧憬家乡 至于离开家嘛
自(し)然(ぜん)が好(す)きなの? 人(ひと)が好(す)きなの? 何(なに)にも知(し)らないんだね,
shi ze n ga su ki na no? hi to ga su ki na no? na ni ni mo shi ra na i n da ne,
喜好大自然么?喜好人们么?什么都不知道呢
ふるさとは東京 そういうあなたは,
fu ru sa to wa to u kyo u so u i u a na ta wa,
故乡是东京 说这句话的你
淋(さび)しいふりも 気取(きど)りもない 都(と)会(かい)のビートル,
sa bi shi i fu ri mo ki do ri mo na i to ka i no bii to ru,
寂寞的样子 也不伪装 像都邑的甲壳虫
海(うみ)を越(こ)えて山(やま)を越(こ)え 私(わたし)の生(う)まれた町(まち),
u mi wo ko e te ya ma wo ko e wa ta shi no u ma re ta ma chi,
翻山越海 我出生的城市
小(ちい)さな自(じ)分(ぶん)に会(あ)えそうな 満(まん)月(げつ)に起(お)きる奇(き)跡(せき),
chi i sa na ji bu n ni a e so u na ma n ge tsu ni o ki ru ki se ki,
彷佛能瞥见小时候的自己 在月圆之夜的奇迹
出(で)会(あ)うはずない この場(ば)所(しょ)で 二(ふ)人(たり)は手(て)をつなぎ,
de a u ha zu na i ko no ba sho de fu ta ri wa te wo tsu na gi,
不可能遇见 在这里 两个人牵起手
どうして泣(な)いてた? もう大(だい)丈(じょう)夫(ぶ) 僕(ぼく)につかまってて,
do u shi te na i te ta? mo u da i jo u bu bo ku ni tsu ka ma tte te,
为什么哭了?没紧要哦 抓紧我
ふるさとは東(とう)京(きょう) そういうあなたは,
fu ru sa to wa to u kyo u so u i u a na ta wa,
故乡是东京 说这句话的你
強(つよ)がるふりも 弱(よわ)さもない 都(と)会(かい)のビートル,
tsu yo ga ru fu ri mo yo wa sa mo na i to ka i no bii to ru,
装做倔强 也没有薄弱 像都邑的甲壳虫
都(と)会(かい)のビートル,
to ka i no bii to ru.
都邑的甲壳虫
歌词贡献者:魏积分 翻译贡献者:江南阴天
単語
ふり②㉧ 【振り風】 【名】❶样子。姿态。形状。打扮。
❷(用“…ふりをする”的形式)假装。伪装。
きど·る㉧ 【気取る】 【五自】❶作态。虚张声势。❷装成…的样子。以…自居。
あこが·れる㉧ 【憧れる】 【下一他】憧憬。神往。渴望。
【歌手先容】
山崎 ハコ (やまさき はこ、1957年5月18日 - ) は、大分県日田市出身の歌手、シンガーソングライター、女優、文筆家。ハブ・マーシー所属。
经历
本名、安田 初子(やすだ はつこ、旧姓・山崎)。
大分県日田市出身。父親の仕事の関係で、中学生の途中から卒業までを祖母と日田市で暮らす。卒業後、両親の待つ横浜へ。横浜学園高档学校在学中、コンテストに出場がきっかけで1975年にアルバム『飛・び・ま・す』でレコードデビュー。150センチあるかないかの小柄で痩せた体躯からは想像もできないパワフルな声量・表現力を誇る歌唱と、暗く鋭く愛から社会を抉る歌詞で、デビュー当時、中島みゆきのライバルと言われた。1975年12月、TBSホールの『パック祭り』に出演。大反響となり、TBS『パックインミュージック』を中央に、“深夜放送のマドンナ”と言われ始める。1979年4月~80年3月 ニッポン放送『オールナイトニッポン』火曜日のDJを担当。その後もリリースやコンサート活動を続け、女性フォークシンガーとして活躍する一方で、エッセイの執筆、演劇出演[1]など多彩な活動を行う。現在も全国のライブハウスを渡り歩くなど、精力的に活動している。
幼少時代から慢性膵炎の持病を抱えており、「酒・タバコどころか(膵臓に負担過大のため)ラーメン・コーヒーも口にできない」(本人談)体質である。それゆえ度々ダウンすることもあったが、彼女の歌唱や楽曲制作への意欲は病に負けるどころか、むしろ力強く、多岐に渡り精力的な活動を展開している。また活動拠点をずっと横浜に置き続けているのも、彼女のこだわりである。
永年独身を通していたが、演奏・作編曲など長く仕事を共にしたギタリストの安田裕美と結婚。結婚後も良好な公私のパートナー関係であり続けている。